2017-06-06 第193回国会 衆議院 農林水産委員会 第18号
実は、農林省は戦後間もなくのときに、初めての経済系の研究所、農業総合研究所を和田博雄農業大臣が設立して、その最初の所長に東畑精一を迎えて、これからは農林省も、農政も、科学に基づいて、経済学に基づいて行政をするんだ、そういう意気込みを示したわけなんですけれども、残念ながら、農林省で経済学とか科学という言葉が通用したのは一九六一年の農業基本法までだったというふうに思います。
実は、農林省は戦後間もなくのときに、初めての経済系の研究所、農業総合研究所を和田博雄農業大臣が設立して、その最初の所長に東畑精一を迎えて、これからは農林省も、農政も、科学に基づいて、経済学に基づいて行政をするんだ、そういう意気込みを示したわけなんですけれども、残念ながら、農林省で経済学とか科学という言葉が通用したのは一九六一年の農業基本法までだったというふうに思います。
柳田国男、石黒忠篤、それから戦後農地改革をやった和田博雄、それから小倉武一、東畑精一、その間に河上肇という人も実は農政学というのを書いています。そのみんなに共通して言ったことは、農産物の価格を上げて農業を保護するというのは、これは絶対やってはいけない政策だと。 つまり、貧しい消費者がいたわけです。農家も貧しかったわけです。
これは石黒忠篤とか和田博雄とか東畑四郎とか、小倉武一もいます、そうそうたる先輩がやったことで、これについては、私は農林省に勤務した一つの誇りに思っております。そういう先輩を持っていたことは誇りでございます。 ただし、先ほど申し上げましたように、当時はやはり柳田国男以降の農政思想が生きていまして、農地改革の後は農業改革をやるんだと、これから構造改革に移るんだというふうなことを考えてきたわけです。
和田博雄さん、農林水産省の局長ですよ。企画院グループ事件というので捕まったりしています。それから、反軍演説をされた斎藤隆夫さん。それで、この人たちの東京近県云々というのは、ちょっとこれは間違いがあるかもしれません。吉田茂さんは、何か、耕余義塾という聞いたことのないところに行っていられるんですね、私塾で全寮制の。そして世襲はこれだけ、一名。 それで、一ページの一番上を見ていただきたい。
農地改革に関して言えば、松村謙三さんという富山県選出の代議士が中心になって、和田博雄さんたちと一緒になって農地改革を進めていく。教育改革も同じですね。土着化と国際化という二つの流れが競合し合って新しい国の形をつくり上げていく。これが今日の戦後日本の繁栄を生み出したというふうに申し上げていいと思います。
私は昭和三十三年五月に当選してきまして、当時、和田博雄先生が率いておられた政策研究会というのに入りました。そうしたら、その会の最初の会合で、亡くなられましたけれども、今度の選挙で横山利秋君が全国で一番たくさん票をとって当選した、だから横山君にひとつ二回目の選挙をどうやったらいいか、それを一年生は聞けと言われまして、そこで会合を開いて聞きました。
吉田も当初は和田博雄なんかを追っかけ、社会党を強化しなければやはり議会政治というのはできないのだと本当に考えた時期もあった。
古い話でございますが、吉田内閣のころに和田博雄さんがいろいろな経過で農林大臣になられました。そのときに、農林省の石黒忠篤先生以下先輩が和田さんに対していろいろ激励をしようという会合に私も出席をした記憶がございます。
このときの委員長は社会党の和田博雄さんでありましたが、ここで吉田さんの答弁の訂正を求めたわけであります。 委員長(和田博雄君) 委員会を開会いたしま す。 先ず私から七日、八日に行いました理事会の御報告を簡単にいたしたいと思います。
私は村の青年団上がりの産業組合長でしたが、農林省へ来て次官に会うと——そのころは亡くなった和田博雄さんも米政課長でいたし、勝間田さんもいたときなんですが、農林省の役所で忙しければ、君あしたはぼくの家へ来いよと言って、ぼくは牛込のお宅へ行ったこともある。しかるときもありましたが、非常に親切だった。 そして、どういう政策をやったかというと、その場所場所に応じた政策をやっています。
実は、私は十年前に成田君と一緒に社会党の使節団として和田博雄君などとともに国賓待遇で招かれたんですが、ざっくばらんに私はこういう気性ですからものを言って、成田さんが社会党の外交路線としての歯舞、色丹で平和条約を一応結んでという意見を述べましたあとで、私は党人だからそれに拘束されるけれども、日本の国民感情としては北方領土の返還ということが保障されなければ平和条約はなかなか困難じゃないか。
私が愛知君を知ったのは、昭和二十五年、参議院議員の選挙を前にして、いまはなき和田博雄さんから、大蔵省に宮城県出身の進歩的な男がいるが社会党候補にどうかとすすめられ、当時銀行局長の君を局長室にたずねたときであります。
それで昭和三十四年十二月に、吉川久衛先生が時の農林委員長当時に、和田博雄さんが質問をし、時の伊東農地局長が答弁しておる。その時分の農林大臣は、いまの大蔵大臣の福田さんですが、福田さんも答弁しておる。議事録を全部読んで検討してみますと、農林省のほうも非常にあいまいな点が多くあるのです。ああいう農業用施設を土地改良区がつくって、そうしてあの道路を有料として料金を取る。
和田博雄君がつくった小作料の統制令の威力も、そんなものはないじゃないですか。きわめて抽象的な規定しかないんだ。あなた方は答弁はうまくやるだろうけれども、実際、こういうふうな危険があるのです。その点十分考えて、こんなずさんなものを、いま無理に農地法改正を出さぬでよろしい。私が言ったように従来の法律でけっこうなんです。
○稻村(隆)委員 例の、近衛内閣のとき、和田博雄君が農政課長時代に、小作料を上げることができない小作料統制令というものをつくった。それが平沼内閣のときに、赤だといって企画院から引っ張られたことがある。あのような、小作料を上げることをはっきり禁止する。それから、小作料を引き上げる、これはやはり当事者間の問題ですが、そこで農民組合なんかができるようになるのです。
それは何か、私はここで、先ごろ死去された和田博雄社会党前副委員長のことばを引用することをお許しをいただきたいのであります。和田先生の残された句の中に「迫る雪山に向かって歩む何かが欠けている」というのがあります。これは政治家として、みずからをきびしく律した和田先生の自問自答の句であろうと思います。
坂田 道太君 重政 誠之君 篠田 弘作君 田川 誠一君 竹下 登君 床次 徳二君 中村 寅太君 中村庸一郎君 原田 憲君 船田 中君 松田竹千代君 落合 寛茂君 栗林 三郎君 河野 密君 高橋 重信君 松原喜之次君 横路 節雄君 和田 博雄
安宅常彦君紹介)(第五二二号) 同(石橋政嗣君紹介)(第五二三号) 同(岡田春夫君紹介)(第五二四号) 同(黒田壽男君紹介)(第五二五号) 同外三件(佐藤觀次郎君紹介)(第五二六号) 同外三件(島口重次郎君紹介)(第五二七号) 同(中井徳次郎君紹介)(第五二八号) 同外一件(成田知巳君紹介)(第五二九号) 同(森本靖君紹介)(第五三〇号) 同外一件(山中日露史君紹介)(第五三一号) 同(和田博雄君紹介
文部事務官 (初等中等教育 局審議官) 今村 武俊君 文部事務官 (体育局長) 赤石 清悦君 自治事務官 (財政局財政課 長) 首藤 堯君 専 門 員 田中 彰君 ————————————— 十一月十一日 委員栗林三郎君及び和田博雄君辞任
同日 委員和田博雄君辞任につき、その補欠として神 近市子君が議長の指名で委員に選任された。 同月十八日 委員山口シヅエ君辞任につき、その補欠として 大村邦夫君が議長の指名で委員に選任された。 同日 委員大村邦夫君辞任につき、その補欠として山 口シヅエ君が議長の指名で委員に選任された。
十月十七日 委員和田博雄君辞任につき、その補欠として堀 昌雄君が議長の指名で委員に選任された。 同日 委員堀昌雄君辞任につき、その補欠として和田 博雄君が議長の指名で委員に選任された。